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2004年9月13日 (月)

嶋津暉之さん

 今日は、「八ッ場ダムをストップさせよう 東京集会――住民監査請求報告大集会」に行ってきました(参加者400名)。内容については主催者たちがどこかのホームページで報告するでしょうから、私は、この機会に、「嶋津暉之さん」のことを書きます。

 田中康夫さんが使った「脱ダム」という言葉は、今でこそ、誰でも知る言葉となりました。でも、高度成長期に立てられたダム計画が、その受益を受ける都会人たちの知らぬ間に、目に見えない山奥で人々の心を翻弄し、コミュニティを壊していたことを、その頃、私たちのほとんどは気づいていませんでした。

 嶋津さんが、それに気づいて衝撃を受けたのは、彼がまだ学生時代。1960年代でした。今日はそれから彼が辿った道(人生)の一面を書きます。 
嶋津.JPG
 なぜなら、嶋津さんがダム水没予定地の人々の心に遭遇した場所の一つは、まぎれもなく、今日の集会のテーマであった「八ッ場ダム」だったからです。

 嶋津暉之さんは、1993年にできた市民団体「水源開発問題全国連絡会」(通称:水源連)の創設メンバーの一人で、現在、共同代表です。水源連は、その名の通り。ダム開発計画に翻弄され、地域ごとにバラバラだったダム反対運動が互いに連携・連絡を取り合う組織です。

 1993年とはダムを巡る時代の変換がまだまったく見えていなかった頃です。
 当時、水源開発予定地に指定された地域の多くでは、ダム事業を推進しようとあの手この手の攻勢を駆けてくる事業者との長期にわたる闘いで身も心も疲れ果てる一歩手前。あるいは、人生のほとんどをダム闘争に費やしたあげく高齢者となり、二代目、三代目へと引き継いでなお、頑張る地域や、疲れ果てて諦める地域が現れた、そんな時代です。

 さて、嶋津さんの話に戻ります。
 嶋津さんは、1972年に東京都に就職します。何をやったと思います?
 工業用水(地下水)使用の合理化です。当時は、地下水のくみ上げすぎで、地盤沈下問題が起きていました。そこで、合理化を指導するという仕事をしたのです。これは効果を上げました。この時、嶋津さんが確信したこと。
 
 節水技術を確立すれば、ダムをこれ以上必要としない社会が来る。
 遠く離れた山村に住む人々が、都市住民のために苦しむ必要がなくなるのではないか。
 
 ところがそうはいきませんでした。
 節水で成果を上げても、一度立てられた行政の計画や事業は止まらない。
 嶋津さんは失望しました。

 でも、そこで諦める人ではありませんでした。
 学生時代に八ッ場ダム予定地である長野原町で受けた衝撃は、そんなものではなかったようです。

 嶋津さんは、この時から、考え方と手法を変えました。
 行政マンとして仕事を通してではなく、心ある一人の人間としての活動を始めたのです。

 建設省(現在は国土交通省)や水資源開発公団(現在は水資源機構)の抱える計画、データ、人口統計、水需要実績データなどを入手し、その情報の整理と、詳細な分析を開始したのです。それにより、現実の水需要と計画のズレを見事に証明し始めました。
 「ダムは要らない」という活動をする住民運動に、嶋津さんは、惜しげもなく自分の時間とエネルギーを割きました。整理した情報(何よりの武器)を与え、支援する行動に出たのです。

 嶋津さんのこの新しい支援に最初に飛びついたのは、1976年に始まった琵琶湖総合開発工事の差止訴訟の原告団でした。
 これをきっかけに、嶋津さんは、全国のダム反対運動から支援を求められるようになりました。
 東京都職員という本職のかたわら、休日を使い果たして現場を歩き、ダム計画と水需要の実績データの乖離の証明のために、夜の睡眠時間を削りに削りました。
 細川内ダム、渡瀬遊水池第二貯水池、清津川ダム、足羽川ダム、新月ダム、倉淵ダムなど、これまでに中止・休止となった多くのダム事業の反対運動の影には、常に(常に、です)、嶋津さんによるデータ分析がありました。
 そのこと最もよく知っているのは、むしろ、事業者達です。
 中止・休止にはなっていませんが、長良川河口堰、徳山ダム、苫田ダム、川辺川ダム、宮が瀬ダム、相模大堰、宇奈月ダムなどに対し、住民運動側が、「無駄なダムだ」と自信を持って言えるようになったのも、その土台に、嶋津さんの力(時間でありエネルギーであり心であり)がありました。
 住民運動に根拠と説得力を与え続けた嶋津さんの情報は、ボディ・ブローとして、行政のみならず、無関心な世論までを動かしていきました。

 ただ、「情報」とは常にそうであるように、いったん、それが説得力をもって伝わり始めると、誰がその情報を最初に整理し、準備をしたのかは、消えていきます。そんな具合で、嶋津さんが整理し、コツコツと準備した情報を、現在の日本国民のほとんどが知っていても、「嶋津暉之」という人を知っている人はほとんどいません。

 知ってもらいたくて、今日は書いています。

 こうした嶋津さんの手法やフットワークの回りに、首都圏でも「東京の水を考える会」が発足しました。その後、全国の反対運動を結ぶ、水源連が発足することになったのは、自然な流れだったのです。
 
 水源連の設立以降の嶋津さんの活動は、新たな展開を見せました。

 住民運動への支援だけにとどまらず、国交省(建設省)との論戦、対決、対話へも乗り出します。また、国会議員に対し、公共事業の中止・休止・継続を判断する中立的な「チェック機構」の創設を提言する活動も中心となって開始しました。

 長良川河口堰が本格運用された1995年初夏、建設省は、ダム事業等審議委員会を始めましたが、その「発想」は嶋津さんたちが提言し続けた「チェック機構」とピッタリ符合します。
 
 私がダム問題に遭遇したのは1995年の1月。
 「嶋津先生」と各地の人によばれる嶋津さんに初めて出会ったのは、この年の春頃だったと思います。
 
 時は流れ、世論の高まりを背景に、環境保全と住民参加を新しい概念に加えて、河川法が改正されたのは、1997年でした。この時、政府案に対し、民主党・共産党などが対案を提出しましたが、その骨子を練った中心人物がこれまた嶋津さんだったことは、今だから明かせる事実です。
 
 私は門前の小僧のように、この対案づくりを、嶋津さんを、見ていました。 

 この頃から、少しづつ、嶋津さんの役割は増えていっていました。
 というのも、「利水計画」の破綻が嶋津さんの努力によって証明され勝負がつくようになっていったのと交代で、今度は「治水」という名目で、ダム事業は生き残るようになってきたのです。
 ところが、日本の河川工学者、土木関係者は、自分の立場や職(我が身ですね)優先で、「治水計画」の破綻や矛盾や現実との乖離について、あばいてはきませんでした。
 
 住民運動に頼られるまま、嶋津さんは、「治水計画」の根拠となる基本高水(ダムがない場合の最大流量)の設定が、実は、部外者による実証がまったく不可能なままに、国交省の密室で行われていることに気づき、その証明に力を注ぐことになっていったのです。
 1997年の河川法対案作成のなかで、本当に嶋津さんが最も強調していれたかった新しい仕組みとは、この基本高水を設定していく段階で、情報をすべて公開し、住民が参加していく仕組みでした。
 しかし、当時、このことが、社会にはうまく伝わっていきませんでした。
 
 門前の小僧だった私は、この頃、まだまだ理解力が低く、97年1月にジャーナリスト宣言をしたばかりで、情報発信者としても力になることができませんでした。そばにいて、すべてを見ていることに精一杯でした。

 そして、2004年、現在、嶋津さんが最も力を注いでいるのが、最後まで残った首都圏の巨大ダム「八ッ場ダム」です。嶋津さんの人生行路を決めたとも言える最初の出会いから約40年。八ッ場ダム計画の始まりから今年で52年です。

 今から数年前、嶋津さんは、「首都圏のダム問題を考える市民と議員の会」結成のために走り回り始めていました。一都五県の住民運動の間を、目まぐるしく飛び回り始めたのです。

 東京都環境科学研究所を退任したのは、今年、2004年3月31日です。ほんとうは、「まだやり残した仕事がある」と研究所への再任用を希望されていました。普通なら、このような希望が退けられることはないそうです。
 ところが、嶋津さんの希望は退けられ、そのまま退任されました。
 
 実は、このことも、本人の口からは出ませんが、八ッ場ダムと運命的に絡んでいます。再任用のちょうどこの時期に、あることが重なったのです。

 あることとは、八ッ場ダム計画の事業費が、2210億円から4600億円へと増額され、一都五県の議会が、自治体分の負担増額を承認するかどうか、という時期です。

 今、批判せずにいつするか、八ッ場ダムを止めることができるなら、今しかない。嶋津さんは、そんな気持ちで、TV番組「ニュースステーション」や朝日新聞の「私の視点」などで、八ツ場ダム計画に対し、精一杯、批判的なコメントや論点を展開しました。

 東京都は、八ッ場ダムの受益者、推進者でした。
 都から嶋津さんの再任用が退けられた時、同僚たちの間で、(八ッ場ダム批判を)「やりすぎたからではないか」とささやかれたのは、実に、もっともなことでした。

 一都五県は増額を承認しました。
 嶋津さんの公務員生活も終わりました。
 でも、このとき、嶋津さんが我が身をかけた叫びは、ムダに闇に消えていったわけではありませんでした。
 一人の弁護士が、それを見事に受けとめていたのです。
 彼は、全国市民オンブズマン連絡会議の弁護士です。

 「一都五県、一斉に、住民監査請求をしよう!」

 この呼びかけで、嶋津さんの人生は新しい展開を遂げました。
 9月10日、一都五県に対して行われた住民監査請求に、5000人以上が名を連ねました。嶋津さんには、その主柱の一人としての新しい一歩がまた始まりました。

 5000人余の一人ひとり、それぞれにきっと、嶋津さんとは違う、けれども意味のあるいきさつがあって、今回の住民監査請求に参加をされたのだと思います。私の役割は、おそらく、そんなお一人おひとりの、貴重なドラマを、できるだけ多く、「元気の素」として記録し、書き残していくことなんだろうな、と思っています。
 
 嶋津さんに都職員という「立場」がある間は、私も、嶋津さんという人物をくっきりと人々に対して描くことを遠慮していました。でも、その歯止めは、今では、まったくなくなりました。
 
 ――東京都もバカだね。嶋津さんを再任用しておけば、こんなことにならなかったのに(笑)、自由の身にさせなかった方が、彼らにとってはきっとよかったのにね。嶋津さんのエネルギーが全開になって困るのは、彼らでしょ――というのが、最近、私の周辺で聞かれる笑い話です。

 私もそう思います。

 長くなったけれど、いつか、なんらかの形で、嶋津さんのことを多くの人に知ってもらいたいと思っていました。さきほど、嶋津さんに「いいですか?」と、ご了解をいただいて、載せさせていただくことにしました。
 「過分な評価を」と本人はおっしゃいました。
 けれども、私は書き足りた気がしません。そして、私が知っているのは、嶋津暉之さんの一面でしかありません。

 5000人余のエネルギーがすべて、このような一人ひとりの集まりであり、八ッ場ダム事業は、きっと(道は険しいけれども)止まるんだろう、と、私は今、思っています。

 まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp

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