« 美濃ダム1 | トップページ | 八ッ場ダム住民訴訟スタート集会 »

2004年11月15日 (月)

美濃ダム2

小学校.jpg

 林さんの情報シャワーから、美濃ダム反対運動のクライマックスの一幕を簡単に整理すると次のようなことになる。
 1999年5月27日と28日、林さんたちは立法院(日本で言う国会)にダム予算を削除するよう抗議デモを行った。「夜の12時に美濃を出ました。朝の6時に(台北に)着きました。それから皆で、立法院の前に立った」と林さん。
  狭いバスに揺られてぎゅうぎゅう詰め、疲れるわ、眠いわ、腹は減るわ。おまけに立法院に着くと、雨が降っていた。林さんたちは『お願いします』と声を張り上げた。しかし、議員たちは雨の中、足早に通り過ぎて建物の中へ入っていく。

(右写真は、美濃で最初に住民を集めて開いた大集会の会場となった小学校。正門から、その集会を行った講堂(写真中央)を望む) 

 手弁当で駆けつけた林さんたちとは対照的で、ダム推進派は32台のバスでゆったりと到着した。彼らは高級ホテルに泊まり、美味しいものを食べて、次の日はどこかのダムを見に行った。水資源局がスポンサーになっていたという。彼らの垂れ幕には、「食べ物あります。おやつがあります。褒美もでます。一緒にデモをやりましょう」とあった。
 推進派が台座に登りマイクを握ろうとすると、反対派が引きずり降ろす。もみくちゃの大変な騒ぎだった。
連盟事務所.jpg

 私のお気に入りのエピソードは、反対署名を集める過程だ。
 「一軒一軒回って賛成反対を調査した。美濃の人口は4万7千人。全員に反対か賛成かを聞いて回った」
 この偉業を成し遂げたのは、農作業の合間を縫って動いた女性達だ。その結果、72%、2万4238人の反対署名が集まったのだと。

(左写真は、美濃反ダム大連盟の事務所。様々な団体が様々な違う役割を演じた)

 このエピソードに関するさらなる私のお気に入りは、美濃愛郷協進会初代理事長 鐘鐵民さんの語りだ。
 「(運動を始めた)初期の頃は、ダムを作ることは良くないことだということを分かってもらうのが難しかった。分かってもらえたから、全戸調査もできた。そうでなければ、反対署名を多く集めることはできなかったと思う。反対署名を最初の頃にやっていたら、きっと、ダムは良いものだと思う人が多く、賛成という意見が多くを占めただろう」というのだ。一朝一夕の運動ではなかったのだ。

いぇーい.jpg

 これは、「運動を始めたころ、一番大変なだったことは、何ですか?」という私の質問の中で飛び出した答えの一つで、「一番大変だったのは、一地域の問題を、どう全体の問題にしていくかだった。美濃の多くの人は、ダムができた方がいいと思っているのではないかと思った。だから、19ある各里(各集落)で、ダムとは一体どういうものなのか、ダムができることはどんな結果をもたらすのか、説明会を開いて、みんなで把握していくこと、そして力を集めていくことから始めた。始めた頃は、あなた達は自分勝手だ。自分のところにダムを作りたくないのだろうと言われた。初期の頃は、ダムを作ることは良くないことだということを分かってもらうのが難しかった。分かってもらえたから、全戸調査もできた。そうでなければ、反対署名を多く集めることはできなかったと思う。反対署名を最初の頃にやっていたら、きっと、ダムは良いものだと思う人が多く、賛成という意見が多くを占めただろう」
 時間と熱意をかけて、何が真実かを伝えながら皆で考えていくこと。何事もこれより他に方法はないのだ。
(右写真は、10月18日に歓迎・交流会として開かれた「アジアン・ナイト」の模様。アジア各国からの参加者が出し物、芸を披露した。)

 そして、反対運動は次の段階を迎える。
 推進派と賛成派がぶつかり合ったデモの翌年、2000年3月18日に行われた総統選選挙で、野党だった民進党の陳水扁政権が誕生したのだ。
 実は、陳水扁は、1999年2月に美濃を訪れた際、僕を応援したらダムは作らないと約束をしていた。「この時は陳水扁が当選するとは思っていなかった。国民党を倒すためには彼を支持するしかなかったのだ。他に選択肢はなかった。」そして、彼らは陳水扁を応援、陳水扁は当選した。
 そして、当選してお礼参りに来た時の陳水扁の第一声が「ダムは作らない」だった。
 「社会運動は必然的に政治運動にならざるを得ない。そうでなければ何も変えられない」
という初代理事長・鐘鐵民さんの言葉。一から運動を作り上げた人が言う言葉だからこそ重い。もっと重く響いたのは、鐘鐵民さんが私に語った締めくくりの言葉だ。

 ダム無し人物と風景63.jpg

 ダム建設反対運動を起こしたのは年輩者たちだった。そこに若い人が参加して、運動が盛り上がっていった。そしてこの運動は、美濃の地方自治、住民自治の運動へと変わり始めたのだ。「故郷を守るのは、これから長く続く運動だ」と。

(左、長老達と、運動を引き継いだ若者たちの合同写真を撮らせてもらいました。守り抜いた山の風景を背景に。)

      * * *

 二代目理事長、現理事長、そして現事務局長など、もっといろいろな話を伺うことができました。しかし、ネット上での報告はこれぐらいにします。というのも、「台湾」を訪れた当時(1ヶ月前)の私の頭と心で吸収できた情報は、ここまでだったからです。

 帰国後、消化不良だった部分がこなれてきました。それは何かと言えば、美濃の運動と切り離すことができない台湾の歴史です。台湾で1949年以来敷かれていた戒厳令は1987年に解かれました。戒厳令とは、統治者批判ができないことを意味します。
 それまで国民党に対して物が言えなかった人々の「言論の自由」(=政治・思想・信条の自由と言ってもいいのでしょう)の歩み、つまりは民主化運動(=改めて考えてみるとこれは、政治・思想・信条の自由のある生活を進めることですね)と、美濃の運動を、切り離して考えることはできないわけです。まさしくこのことを二代目理事長から聞いたとき、私は、理解できていませんでした。
 1987年から2000年、なんという短い間に、台湾は多くのことを成し遂げたのか。そしてその間に、なんと大きな運動を美濃の人々は成し遂げたのか。
 別の深さの感動が、今、私の中に押し寄せています。
 台湾や美濃で取材したことを、どんなメディアでどんな風に紹介できるんだろう?と考えながら少しづつ営業活動をしてきましたが、ようやく、書くべきもう一つの切り口が見つかったような気がします。

 言論の自由も、政治・思想・信条の自由も、当たり前のものとして持っていたつもりの私にとって、美濃の運動の重さを受けとめることは、改めて、自分が持っている言論・政治・思想・信条の自由の価値に気づく体験となったわけでした。

 ネット上での台湾報告メモを終わります。

まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp

|

« 美濃ダム1 | トップページ | 八ッ場ダム住民訴訟スタート集会 »