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2004年11月12日 (金)

美濃ダム1

美濃ダム無し風景.jpg
 
 台湾から帰ってきておおよそ一ヶ月。今日はようやく美濃ダムのことを報告します。
 まず右の写真をご覧ください。畑の向こう、向かって左側に三角にとがった山のピークが見えますか?美濃ダムはこの左の山のピークから右の手前の山へと線を引っ張っていたところに、コンクリートの壁が来る計画でした。

 It has been almost a month since I visited Taiwan. I better start reporting on the Meinung Dam. The photo on the right shows you, beyond the field, a pointy mountain peak on the left. From that peak to the mountain on the right you can imagine the concrete wall of the Meinung dam standing in between, which was the government’s plan.

説明を始める.jpg

 「高さ147メートル、横230メートル」とダム計画をそらんじて教えてくれるのは、林△芳さん。
 「反対運動を始めた長老達に会いたい」という私のリクエストに、美濃愛郷協進会(MPA)のメイピンさんが「ほえい?(台湾語で、「モシモシ」という意味らしいが、その語感がキュート。「ほえい?」と誰がが電話する度に聞き惚れていた)」と、次々と電話で呼び出し、続々とダム反対運動の中心となった長老たちが集まってきてくれた。
  その場所は、どうやら、普段は、農機具や車などを置く場所。それが運動の拠点の一つになっているのではないかと思う。彼らが守った山の風景が一望できる見事なスポットだ。

 “It’s 147 meters high and 230 meters wide.” So Mr. Ling (photo on the left) told me about the dam project. In response to my request to see the elderly who started the dam anti-movement, one of the youngest members, Maiping from MPA called them up. And they started to gather one by one to a place where they probably use for storing farming tools and gear. I gathered this place was also shared by anti-dam campaigners’ get-together. It is one of the best places to capture the whole view of the planned dam site.

 全員が揃うまでの間、持ってきてくれた沢山の資料を見せながら、待ちきれないかのように「これをキミにあげよう」と、日本語でお話しを始めてくれたのは、林△芳さんだ。初老のおじいさんに「キミに」と言われたのは初めてで、なんだか、ドキドキした。「キミ」は、きっと、林さんが少年の頃に少女に向けて使っていた言葉なのだ。そう思った瞬間に、こちらまでが、タイムカプセルで、林少年と同年代の一時代前の少女になったような気持ちになってしまった。

 Unable to wait for some others to arrive, Mr. Ling started to explain what happened those days by showing a heap of papers and saying, “I will give you this”. But the expression caught me in a little surprise because of the word “kimi” for “you” in Japanese. It is not everyday event for me to be called “kimi” by the nice gray-haired man nowadays in Japan. I felt I hopped on to a time-machine to go back to the Japanese ruling time when Mr. Ling was still a boy and he and other boys were forced to speak the Japanese language and mention “kimi” for mentioning girls for “you”, which is rather rare in modern Japan. (I will translate the rest of the report later, sorry!)

 日本は昔、台湾を50年も統治していた。日清戦争で負けた清が、台湾に住んでいた人々には断りもなく、台湾を日本に譲渡してしまった。以来、第二次世界大戦で日本が負けて引き上げていくまで、台湾は日本の統治下にあった。
 林さんが話す日本語は、だから、終戦までに覚えさせられたかつての侵略者の言葉だ。林さんだけではない。私がお会いしたほぼすべてのご老人が、なんらかの日本語を覚えておられた。ご自分で話せるほどには覚えていなくとも、私の話す日本語が、純子さんの台湾語通訳を待つまでもなく要所要所で理解されているらしいことが、彼らの頷くタイミングなどから、分かることもあった。

 美濃に着くまでの間に、心をある程度整理しておいて良かったと思った。そうでなければ、林さんたちの目を真っ直ぐ見ることもできなかったかもしれない。少年時代に日本語を覚えさせられた人々に、私は一体、どの面を下げて会えばいいのだろうかということだ。

美濃湖.jpg

 思いがけず最終的に心の整理を手伝ってくれたのは、若きイーティンだった。美濃へ向かうバスの中、美濃に着いてからの取材の相談をしている時だ。それとなく長老たちが私から取材を受けることについてどう思っているのだろうかと聞いたつもりだった。
 すると彼女は私の心境を見透かしたように、「アツコ、かつて貴方の国がしたことを、申しわけながる必要はないョ」と、一つの話をしてくれた。
 「私のおばあちゃんは、日本時代の方が(その後の蒋介石たち国民党時代より)秩序があったし、泥棒も少なかって言うよ。そりゃ、日本の警察や軍にヒドイことをする人が中にはいたらしい。でも、日本人が出ていった後の方がひどかったって」

 美濃へと発つ前、台北にいる間に、台湾在住の日本人の方に聞いてもみた。
 「私がニワカ勉強をしたガイドブックに、台湾の人々は日本人への悪感情を不思議と持っていないと書いてありましたが、それは本当なんでしょうか」と。
 その時に聞いた答え、このイーティンの話、そして滞在中に見聞きした話や、帰国後に読んだ本には、共通点があった。
 それは、統治された者の目から見た、統治者に対する「比較の問題」だ。
 たまたま日本よりも後に来て、日本から台湾を開放したはずの新しい統治者たちの無法ぶりが、目に余るヒドサだったので、日本人はマシだった、毒がもっとヒドイ毒で打ち消されたという話しなのだ。(なんだか、フセインと米軍を思い出すではないか)

 もちろん、今の若い人たちに日本人に対する敵意も悪感情もないのは間違いない。だが、彼らの祖父母世代からすれば、やはり、自分たちの言葉を奪われ、別の言葉を強制され、再び奪われ、再び別の言葉を強制され、つい最近まで(民進党が政権を取るまで)、台湾語を制限されていた。そのすべてを体験したご老人たちの心に、悲哀がないわけがない。
(右上の写真は、「美濃湖」。看板などに書いてある正式名称は「中正湖」。中正とは蒋介石のことだが、彼らはそう呼ばずに「美濃湖」と呼ぶ。これ一つとて、美濃を雄弁に物語る。)
 
 さらに言えば、美濃の人々は、台湾というアイデンティティの他に、美濃で95%を占める「客家(ハッカ)」というアイデンティティも持っている。客家語という言語もある。
 若い人や子ども達の間で、じょじょに廃れつつある言葉だ。その文化とても、長年に渡る侵略の時代がなければ、今とは違う姿があったはずなのだ。
 
 ガイドブックにあるような日本人に対する悪感情がない、という単純な、日本との関係の中だけで整理できることではない。そう受けとめた上で、それから先は、澱みのない気持ちで、台湾の人々にまっすぐに接することに決めた。
 
朝日.jpg

 美濃ダム反対運動の悲喜劇を、無邪気なほどにまっすぐにぶつけてくる林さんのエネルギーのシャワーを浴びながら、私は、そう整理しておいたことを良かったと思った。過去に起きたことを受けとめた上で、どの世代とも新しい関係を築き、尊敬しあえるよう頑張らなければと思えたのだ。

(左写真は、美濃湖から見た日の出)

 次回は台湾報告最終回。

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