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2005年12月 5日 (月)

オールor ナッシングの解説

 第一ラウンドについて、蔵治先生からコメントをいただきました(感謝!)。第二ラウンド で、研究者に対して「私が望みたいのは、All or Nothingです。関わるなら、一生懸命かかわって欲しい。それができないなら関わらないで欲しい」と発言をすることを見越して先回りでコメントをくださいました(さすが!)。とてもありがたいです!時間がなくて言葉足らずだったので。

 蔵治先生に続いて、高橋さんから「All or Nothingって何のことか解説してください!」というコメントもありましたので、解説します。まずは、蔵治先生の「そのお気持ちはよくわかりますが、しかし、研究者の現状を考えると、現時点でオールオアナッシングを突きつければ、99%の研究者がナッシングを選択するのではないかと私は思います。そして、それが社会の健全なあり方なのかというと、私はそうは思いません」に、100%賛成です。
 
 蔵治先生の研究会に出入りさせてもらうようになって一番嬉しいのは、さまざまな研究者がさまざまな研究に取り組んでいるのだということを知ったことです。
 ただし、「研究者」が研究として関わることと、たとえば河川法にもとづく河川整備基本方針の「意思形成過程」に組み込まれることに報酬を受けて依頼を受け、引き受けることでは、問われる「責任」が違うと思うのです。

 能力以上のことをしろとはいいません。誰も彼も100%関わって欲しいともそうできるとも思いません。市民が行政手続に関与していく中で、研究者に20%でも10%でも関わってもらえたらとありがたいと思うことは数多くありますし、必要です。でも、意思決定過程に組み込まれることを選択し、その場に参加している以上、事務局が出してくる原案に無検証、無批判で、シャンシャンと通していくのは無責任だと思うのです

 無責任と感じた場面を、利根川のケースではすでにパネルディスカッションの中で出しましたので、あと2ケース報告します。

●11月30日に私が傍聴した淀川河川整備基本方針の策定の小委員会では、3人の委員が、「資料が膨大で中身を理解していない」と発言しました。たいへん勇気ある、正直かつ重要な発言だと思います(それが議事録に残るかどうか、注目をします)。実際には他にも「理解していない」にも関わらず、そのことすら伝えずに、座っているだけの委員が多いのではないでしょうか。中身を理解していない委員がそのままにして「方針」をもしも通したとしたら(おそらくそうなるのではないかと危惧しています)、この方々は、一体、なんの役割で、この審議会にいるのでしょう。自問自答して欲しいのです。

●吉野川河川整備基本方針の策定の小委員会では(これも傍聴しました)、日弁連のシンポジウムで姫野雅義さんが言ったように、「4年も5年もかけて、住民が議論されたにも関わらず」、また、与党政府によっても「第十堰改築事業は白紙」と結論が出たにも関わらず、また審議委員に対し、流域の住民から、緑のダムの効果について、「研究者」の協力を得て、住民その他の寄付金と徳島市からの予算で検証をした結果を検証して欲しい、「私たちの意見を聞いてくれ」とリクエストをされているにも関わらず、きちんと応えない、専門家としての意見を言わない、誠意を見せないのは、研究者として、いかがなものでしょうか。その好奇心のなさをとても情けないと思ったのです。ALL(100%)というのは他人との比較や能力において、誰々は100%という種類の100%ではなく、一人の専門家として、その人自身の能力の限界と良心と熱意と誠意においての100%を注いで欲しいと言う意味です。

100%(ALL)と言っても、多くを望んでいるわけではありません。良識の範囲で、研究者なりの対応の仕方というものが、利根川の場合も、淀川の場合も、吉野川の場合もあると思うのです。この3つはたまたま私が傍聴することができた川です。でも、109水系すべてにおいて、毎度、同じ20数名の委員で、この調子でやるとしたら、それは、適正な政策形成プロセスと言えるだろうか?そうは思えないんです。

「住民、市民は、計画や管理に参加、参画の機会が与えられれば与えられるほど、研究者を必要とするのではないかと私は思います」ということにも、100%その通りだと思います。

だから、また、その逆に、参加、参画できない住民・市民から、意思決定機関に組み込まれている「審議委員」に向けられた問いかけや疑問にはきちんと向き直って謙虚に耳を傾けてもらいたいと願うわけです。

審議会の進め方に疑問があるなら、あると、しっかりと、公言し、改革を求め、責任ある審議会のあり方はなんなのか、あるいは、審議会以外の意思形成過程のあり方を日本は目指すべきではないのかということを(オフレコ発言している方は、河川分科会に限らず、複数いますので)公言して、行政の意思決定のやり方でマズイところを変えていくことに寄与して欲しいのです。

そのカギを、国や政府自治体の「審議会」などに組み込まれている研究者なら、与えられている。その幸運を、人々のために使って欲しいと思っているのです。

2日のパネルでは、審議委員であられる虫明先生に、私のその思いを一気に覆い被せたような感じだったのに、虫明先生は真摯に応えてくださり、とても感謝しています。私はこうして直接にお話する機会がある。でも、多くの一般の方々は、それすらできない。私は自分の幸運を使う責務があると気負い(ジャーナリストとしての責務かと)、極論ですが、極論だという言葉を節約して、All or Nothing と申し上げました。

でも、繰り返すように、審議委員になるということは、責任を伴うのであり、単に大学や研究室でのお勉強の延長と思ってもらっては困る。その「意思決定」によって、影響を受ける人がいる。人生が左右される人が必ずいるということに、思いを馳せて真剣に対応してもらいたい、という意味です。(この言葉はモノを書く私自身にもそのまま返ってくるわけですが)

このテーマは本当に深いと思います。一期一会で、そのとき、そのときにできる精一杯のことを、関わることができたものが言動・行動を繰り返すことが重要なんだと思います。

★吉田先生も、第一ラウンドへのコメントありがとうございます。「計画されている「上流ダム群」には6千トンを調節する能力がありません」とのご指摘の点、その通りです。第一ラウンドでは、実は私自身、その点を述べました(端折りましたが、またじっくり解説したいと思います。少しだけ数字が今回変わっているところもあり)。また、3日の日弁連シンポジウムでは、嶋津暉之さんもそのことをご指摘されました。というか、私は嶋津さんにその点を教えていただいたのですが。

まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
ViVa!(ビバ!)はこちら

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コメント

まさのさん、コメントどうもありがとうございました。

審議会に出ている先生方は、自分たちが「無責任」だとは全く思っていないと思うんですよ。「責任」とは何かという点について、あるいは誰に対してどういう責任を負っているのかという点について、まさのさんと先生方ではまったく違っている。

一度、まさのさんが審議会の委員になればいいと思うんですよね、いろんな意味で。国土交通省も、そういうことを考えればいいのに。

投稿: 吉田(農工大) | 2005年12月 6日 (火) 12時50分

そうですね。そうなったら、「国交省が応答責任を負う公聴会を開きましょう、パブコメしましょう、インターネット中継しましょう。何?委員の名前を伏せて議事録公開?ダメでしょ」と言った形式の提案から、「この審議内容を検証できる人なんか、この中にいないじゃないですか!この件なら、○○さんに頼んで、比較検証しましょう」とか、「こんな重要なことを、事務局案の通りシャンシャンと通してどうするんです。委員長の解任を求めます!」「この審議会から天下り委員の追放を要求します」とか好き勝手言うから、絶対にならせてもらえませんね(笑)。

投稿: まさの | 2005年12月 7日 (水) 01時19分

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