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2006年9月28日 (木)

須藤★特派員の川辺川レポート!

 熊本はあまりにも遠い!川辺川問題は全国ニュースに流れにくい!動きが早い!私はノロマで追いつかない!というわけで、熊本在住の須藤久仁恵さんを特派員(別に派遣したわけじゃなくご在住なんですが^^;)にスカウトしました。本日から須藤さんの気の向くまま、書きたいときに書きたいだけ書いてくれ!ということにしました。皆様どうか須藤さんをよろしく!カテゴリーで「須藤★特派員の川辺川レポート」を選んでもらえれば続きで読めるようにしました。

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須藤★特派員の川辺川レポート!

(1)川辺川ダム問題‐利水事業とは何か

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 川辺川ダムは特定多目的ダム法に基づく多目的ダムである。その目的は①治水、②利水、③発電、④流量調節の四つであり、1966(昭和41)年に計画が公表された。流域の住民はダム計画に翻弄され続けてきた長い歴史を持つ。ダムで水没する五木村だけでなく、流域の人々が否応なく巻き込まれてきたダム問題。治水問題にしろ、利水問題にしろ、行政と流域住民のダムへの思いには大きな隔たりがある。

国営川辺川総合土地改良事業(以下、利水事業という)は、川辺川ダムから農地に水を引き、地元農業の振興をはかろうとする目的で始められたものである。粘り強く事業に反対し続けた地元農家の闘いや、裁判や事前協議の場で行政と真正面から対峙してきた弁護団の闘いの結果、「利水事業」は川辺川ダム問題の状況を大きく切り開いてきた。「利水」には、大きな節目がいくつかある。福岡高裁判決、事前協議、事前協議の解体、相良村の事業からの離脱と現在。激動の節目を辿りながら、この国営事業の意味と農民の闘いが勝ち取ってきたものを考えていきたい。

1、福岡高裁判決まで(利水事業の概要と歴史)

国営川辺川総合土地改良事業、いわゆる利水事業の事業組合は人吉市、及び球磨郡内の相良村、錦町、山江村、あさぎり町、多良木町の6市町村から構成されている、一部事務組合(地方公共団体が事務の一部〔ここでは利水事業〕を共同で処理するために作った団体=地方自治法284条)である。現在は錦町の園田耕輔氏が事業組合長を兼任している。

土地改良事業は地元農家の要請を受けて進める「要請事業」である。土地改良法によれば、土地改良事業は私有財産権を「制限する(対象農地の土地利用に制限を加えることや、受益者の負担金を強制的に徴収する)ことができる」と定めている。そのため、計画の決定に際して高いハードルが設けられている。地元自治体との協議、意見聴取は勿論、事業対象農家(有資格者)の三分の二以上の同意取得が認可の条件となっている。

球磨川と川辺川の合流地点辺り、二つの川に挟まれた広い台地がある。高原(たかんばる)台地という。第二次世界大戦後、戦地から多くの引揚者がここに入植した。石ころだらけの火山灰台地を開墾し続けた入植者は、換金できる米つくりを熱望した。しかし、高原台地には米作りに必要な水がなかった。

農家が水を切望していた1963(昭和38)年から1965(昭和40)年、球磨川の氾濫が続き、人吉市をはじめとして大きな被害が発生した。それを受けて、建設省(当時)は1966(昭和41)年にダム計画を発表、最初は治水目的のダムであったが、1968(昭和43)年にダムから(主に高原台地に)水田用の農業用水を引く利水目的を加えて多目的ダムに建設計画を変更。1976(昭和51)年には熊本県議会の承認を受け、川辺川ダム基本計画は告示された。

1984(昭和59)年には、国営川辺川総合土地改良事業計画が告示された。これを「当初計画」という。この時点での受益面積は3590ヘクタールである。

当時の日本の農業の現実はというと、1970年ごろから始まった減反政策により、米の作付面積は次第に減って行った。水田に水を届けるという最初の目的が、1984年の「当初計画」策定の時点では「畑かんがい」を主目的とするものへと変わっていったことを覚えておいてほしい。

望んでいた水が来ない高原台地では、農業経営の形態が稲作から、大量の水を必要としないお茶の栽培や酪農経営へと移行していった。長い年月の苦労の末、お茶の品質も改良され、美味しい「相良茶」として全国的にも認知されてきた。現在、高原台地では、よく手入れた茶畑が一面に連なる景色をみることができる。

米の減反政策に象徴されるように、日本の農業は大きく変化してきた。食料自給率の低下、外国産の安価な輸入作物に押され競争力を失う農業、後継者不足に悩む農家など、農家を取り巻く状況は厳しさを増している。そういう苦悩する農家の姿は、ビデオ『ダムの水は要らん』でも見ることができる。

「後継者もいないのに、負担金を払ってまで水は要らない」という農家、「水代も分からないのに事業には参加できない」という農家が増えてきた。また、事業の最大の受益地である相良村には、『飛行場水路』という昭和15年に作られた用水路が今も十分生きており、相良村の水田農家にとって水は足りていた。

1994(平成6)年2月、「当初計画」の内容を変更する新たな利水事業計画が公示された。これを「変更計画」という。事業対象農地面積3010ヘクタール、対象農家約4000名という大規模な国営事業である。

「当初計画」の同意取得の時点で「計画実施の時点で対象から外すから(今回は同意をしてほしい)」という念書まで取っていた事業推進派。それゆえ、「変更計画」の同意取得は容易ではなかった。強引な署名捺印を迫られた事例もあったという。この同意取得の経過を取材し続けた貴重なフィルムが存在している。後に編集されて「ダムの水は要らん」という一本のビデオとなり、福岡高裁で農民側の証拠として採用された。

1994年11月、農水省は事業に必要な三分の二以上の同意が取れたとして「変更計画」を決定した。直ちに農民は変更計画の決定に異議申し立てを行ったが、農水大臣は却下した。その後、農民は利水事業における同意取得は違法であると裁判に訴えた。熊本地裁では農民が敗訴したが、2003(平成15)年に福岡高裁で利水事業「変更計画」の同意取得の違法性が認定され、農民の勝利が確定した。

高裁での大きな争点は「同意書が適法かどうか」であった。国は激しく拒否したが、裁判所の命令で同意書原本が農水省から証拠として提出された。一枚一枚確認していくと、既に死亡している人の名前、砂消しゴムで消したあとに書き加えられている名前など、工作された痕跡が多く見つかった。

5月16日福岡高裁は利水事業の対象農家の同意数は法に定められた三分の二以上に達していないと認定、農民は勝利した。高裁判決は事実認定であった為、国は最高裁への上告を断念せざるをえず、農民の勝利は確定した。この時点で、国営川辺川総合土地改良事業は白紙に戻ったのである。

(続く)

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コメント

はじめまして、鈴木と申します。TBさせていただきました。
代替案(関さん)のブログからお伺いいたしました。

 お役人のなりふりかまわぬ動きは、昨今の北朝鮮とかぶってみえてしまうのは私だけでしょうか?まさに洗脳そのものではという疑いも感じています。

 今後ともよろしくお願い致します。

投稿: 鈴木康夫 | 2006年10月11日 (水) 11時27分

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