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2011年4月 7日 (木)

基本高水の無謬と誤謬

前のコマに関する補足というか感想です。
もともと治水(人の命を守る)のために生まれたのが基本高水ですが、雨量観測データや多くのパラメータで算出される基本高水は、一端決まるとそれが一人歩きしていました。今回の日本学術会議の分科会を聞いていて改めて見えた課題を大雑把に述べると、

(1)雨量観測所が少なかった(特に山の上の方)。
(2)だから雨量観測データが少なかった。
(3)どの雨量データを使うのか切り捨てるのかの「判断」が入る、
(4)計算に複数のパラメータを使うがパラメータの数だけ「判断」が入る、

ここまでが気象観測と水文学と河川工学の課題で、こうした課題を含む数値でありながら、課題は伝えられないまま「政策」の場に持ち出され、計算の限界を含む「科学的な数値」が「政策的な数値」として扱われ、是非論が闘わされてきたのが現状です。

(5)そのデータも計算手法もブラックボックスに入れられ、出てきた数値(基本高水)だけが一人歩きをして、誰も数値を外部から検証することができなかった

これは河川局の問題。本来であれば、河川局が「科学的な数値」の課題の説明責任を負い、「政策的な数値」はまた別の問題であることを政策決定者(国土交通大臣)や国民に理解させる必要がある。なぜならば、少なくとも、良識的な研究者の間では、基本高水が科学的に計算された数値(ベストを尽くして計算された数値=パーフェクトではない)ことが共有されているが、それは世間には自動的には伝わらない。

本来であれば、基本高水は治水政策上の一つの目安だが(目安として扱うべきであると考える良識的な河川工学者の一人が、たとえば今本博健京大名誉教授)、河川局ではそれを絶対的な数値として発表し、ダム反対派はそれがダムの根拠だとして目の敵にする。

政策決定者(国土交通大臣)の問題は、最後にその数値をオーソライズする立場にいるにもかかわらず、実のところは、審議会がオーソライズすればそのまま鵜呑みにする以上の力がない。内部的なチェックが働かない。それは、審議会(河川整備基本方針の決定の場)にその数値を批判的に検証する住民や専門家の参加がないからだ。本来なら、批判に耐え、検証に耐えるだけの数値でなければならないが、審議会が「審議」会にならず、河川局が出してきた数値(しかも誰がどのように出したか、責任者が明確でない数値)を通す通過儀式になってしまう。その儀式的な数値を政策決定者がオーソライズして、そこからは「絶対的な存在」として基本高水が君臨する。

今回の日本学術会議の分科会の非常にいいところは(これは小池委員長にぶら下がり取材の中で思わず感想として生意気にもお伝えしたが)、先に述べた限界が存在していることや、結果には自ずと幅があることを(これまでも水文学や河川工学者の間では認めて議論されていたのだろうが)、水文学者や河川工学者が議論していることです

今回は研究者が主体なのでこのようなフェアな議論がたたかわされている。しかし、実際の政策決定の場では、黒子であるコンサル業者が計算をして、出してきたものを河川局が出してくるという流れで、河川局長が「頭が悪くて今すぐなんとも」と自分で認めるほどに、責任者がその過程を理解できているわけではない

コンサルと河川局の間でどんな議論があって出てきた数値なのか、プロセスが分からないままに(鉛筆なめをしていても誰も検証できないままに)、「政策的な数値」として使われてきたのが基本高水だ。そしてその場にいわゆる本来の意味での第三者的、独立した研究者、国から研究費や仕事をもらっていない研究者は介在せす、また、あくまで発注者である河川局と受注者であるコンサルの間の関係でこの数値が決まっていた。水、森、地質という数字では表しきれない状態を計算で出す科学には限界がある(科学への挑戦的な数値である)にも関わらず、「基本高水」という数値になった途端に、その数値が「政策」の場で使われると、金科玉条の絶対的な数値として扱われてきた。どこに無謬と誤謬(誤差や判断)が入っているのかが明らかにされずに一人歩きしてきた。

その結果として、次の滑稽な課題(6)が生じてきた。

(6)その数値が永遠に達成できない実現性のない治水目標であること。

これは大熊孝新潟大学名誉教授が3月29日に訴えたことだ。たとえば、利根川水系場合(八斗島基準点)は2.2万トンだが、これを実現しようと思えば、ダムを最低でもあと数個作らなければ達成できない。しかしダムを作る場所はもうない。「そんな数値に意味があるんですか」ということだ。

治水計画としての問題だ。どんな数字が出るにせよ、「出した数値が治水上実現可能な数値なのか責任を持っていただきたい」ということを繰り返し主張したのが3月29日の大熊教授の議論の最終的な結論だ。

今回の検証が始まったきっかけは(1)(2)(3)の正誤は問わず、雨量データと(4)を入れて(5)を関良基拓殖大准教授が試算したら、実際に国交省が発表してきた結果とは違うから、鉛筆なめだったのではないかと疑われたことに端を発する。

日本学術会議では、4月1日までに、(1)(2)(3)まで遡って問えるかどうかを含めて(なんと、江戸時代の寛保の大洪水まで!?)議論する。(4)(5)が検証されていく前提で、(6)の注文が大熊教授からついた。

出される結論はしたがって、(1)(2)(3)が問えるかどうか4)(5)のどこに無謬と誤謬があったか(あるいは意図的なインチキがあったか)、およびその結果、日本学術会議としてはどのような数値をベストな(パーフェクトではない)数値であると推奨するのか、そしてその数値にはどのような無謬と誤謬が含まれている可能性があるのかを明らかにし、(6)について研究者としての良識を示す。

だいたい、こんな議論になっています。

ベストな(パーフェクトではない)数値としては、一つの数値を出すのではなく、幅をもって出すのだ、というのが、ぶらさがり取材で得た小池委員長のお答えでした。

目安として利用するにしても、それをどう治水に活かすかは、住民不在で議論をしても意味がない。住民が自分の置かれている環境を住民自身が知ることがなければ、乃木坂の一室で議論されていることには何の意味もない。いずれにせよ、普段、コンサルと河川局の間でのみ決定されてきたことが、公開の場で研究者によって議論されているということだけは言える。

ここから先にさらに言いたいこともあるがここまでにしておきます。(それに議論の過程で出てきた重要なことで、ここでははしょっている問題もありますので、分科会の議事要旨でご確認ください・・・と言うこと自体に問題がはらんでいるわけで・・・)

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コメント

まさのさま
ダム日記、一つずつうなずきながら読まさせていただいています。
基本高水のことなのですが、高橋裕氏は下記のように記述されています。
「計画数学に基ずく基本高水流量は、計画者が根拠とするには便利であるが、便宜的かつ相対的数値である」また「絶対に客観的基準とはいいきれない」とし「絶対視すべきでない」とも断言されています。
そして「社会的および地域特性に応じた決定方法が考えられる」とされています。(社会的共通資本としての川 東大出版会刊)
基本高水は科学ではなく、川を計るひとつの技術にすぎないのではないでしょうか。

ちょっと気になる言葉なのですが、科学は真理を探究するものであり、技術はあくまでも便宜的なものであって、時、場所によって変動するものではないでしょうか。

流量解析に使用する貯留関数法はそれ自体システム誤差として20%から30%の誤差を持っていることは寶馨氏の淀川流域委員会での発言にあると思います。
ということは基本高水の数値はかなり大きな幅を持った数値であることを意味していませんか。
それが一つの数値として独り歩きさせていることに問題があることは全く同感です。基本高水が幅を持ったかなりいい加減な数値であることはよく知っているのですが、ほおっかむりした方が便利だから黙っているのです。


投稿: | 2011年4月 7日 (木) 12時00分

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