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2011年8月27日 (土)

前原元大臣の初動の誤りを尻ぬぐいするのは誰か

八ッ場ダム「国交相継続なら中止した」と前原氏(2011年8月26日09時25分  読売新聞)を読んで、そりゃ、違うだろうと思った。

2009年9月、「八ツ場ダムは中止する」と言いながらマスコミバッシングを受けた途端、「関係者の理解を得るまでは中止の手続きはしない」と言った時点で、彼は河川官僚の手のひらに乗ったも同然だった。ダム事業の中止は、法律に書き込まれた大臣の「権限」を行使することに他ならない。それは選挙という最も民主的な手続を経て、その手続に裏打ちされた「権力者」だけが行使できる、最も民主的かつ不可逆的な政策転換の手法だった

少なくとも彼は当時、法律を運用するとはいかなることを知らなかった、と言わざるを得ない。政治主導ということも政治家の結果責任ということも、実態としてどういうことなのかを知らなかったと言わざるを得ない。既得権益を脅かすことであり、反発を受け、恨みを買いながら、意見調整をしていくことに他ならない。弱者がその変化の中で虐げられることがないよう配慮し、気遣いをし、そのための人事を行うこと、その誠意を尽くせる人員配置を行うことだった。前原元大臣は、2009年の政権交代時に、この政策変換にとって最も重要な法手続と人事を誤った。

丸一年前の2010年9月に、弁護士さんたちで構成されている日本環境法律家連盟のニュースレターに、このことを書いた。ブログでの再掲に了解を得たがまだ載せていなかったので、これを機に載せる。前原元大臣の失敗の尻ぬぐいを、馬淵前大臣が行う形で、その後、基本高水のインチキが明らかになってきたが、そもそも前原元大臣が、選挙を通じて政権交代を果たした初代大臣に与えられた権力そのものである「法執行」を迅速に行い、自民党政権時代に隠し通した情報の公開と、政権交代に相応しい適材適所の人事を行っていれば、今ごろ、水没予定地に暮らし翻弄された人々も新しい生活に向かうことができていただろうと思う。

その失敗を仕切直すことができるのかどうか。誰が首相になるのであれ、前原元国土交通大臣の初動の誤りを軌道修正する仕事は、2年前の政権交代後の政策変更よりもさらに難しく複雑になっている。前原さんには、首相になろうがなるまいが、ご自身が放置してきた失敗の尻ぬぐいをしてもらわなければ困る。それ以外の人がなった場合は、この問題の放置ではなく、尻ぬぐいをできる人でなければならない。

以下、2010年9月に日本環境法律家連盟向けに書いた原稿です。

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政権交代後のダム政策
本当に変わるか~永田町に新しい動きは期待できるか 
まさのあつこ ジャーナリスト

政権交代後、ダム政策は変わったか?一言で言えば「変わらない」。何故か?治水の理念が法律上は変わっていないからだ。率直に言えば、すでに事実上死んでいた事業を成仏させることは可能かもしれない。しかし、既得構造を維持するために必要な事業は、継ぎ接ぎだらけでも巧みに生き続ける。何故か?

前原誠司前国土交通大臣は、2つのダム政策変換の兆しを見せた。一つは大臣就任決定直後の「八ツ場ダム中止宣言」。一つは私的諮問機関である「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」の開催。しかし、それらがダム政策の転換かと言えば、おそらく大臣本人が自信満々に見せているほどではない。内心、失敗したと後悔しているのであれば挽回が可能だが、そうでなければダム政策転換の千載一遇のチャンスを逃し、次の機会は何時かと首を長くする話になってしまう。

八ツ場ダム中止の決断はヨシ
「マニフェストに書いているので八ツ場ダムを中止する」との中止理由がいい加減だと批判を浴びたが、それ自体は悪いことではない。水需要を満たし、洪水を防ぐと言いながら、何もせずに約半世紀も過ぎた事業に合理性はなく、従来の推進理由の方がよほどいい加減だ。利水、治水面からだけでなく、前原大臣が挙げた「財政逼迫」「人口減少」「維持管理」などいかなる理由からも、中止する理由は十分ある。「要するに鉛筆なめであり、ダムはいかなる理由をつけてでも推進できる」と官僚や元官僚なら知っている。その逆で、いかなる理由でも止められる裁量の余地が、関係法律にはある。

重要なのは、治水上の理由などで本当に止めてはいけないものまでが「行政裁量」や「政治判断」と思われる理由で中止にならないようにすることだ。その意味で、前原大臣が八ッ場ダムに関し、本来、取るべき道は一つだった。特定多目的ダム法に基づく基本計画の廃止手続に則り、継続したい理由を関係都県知事(議会の議決を経た後)から聞けばよかった。「中止の理由を説明しろ」と批判をしている知事たちの主張を聞けば、実は「推進の理由」こそ妥当性に欠けている。

例えば、八ツ場ダム推進の姿勢を固持する石原都知事。8月6日の定例記者会で、議会が採択した請願通りに水需要予測を見直すべきではないかと筆者が問うた時のこと。途中から八ッ場ダムにかかわる質問だと気づいた知事は、やにわに八ッ場ダムが必要な理由を言い始めた。ビール工場の生産が止まり、プールで泳げなくなったというお決まりの渇水話である。そこで、取材をしてもそんなビール会社はなかった、プールで泳げなくても人命は失われないと反論したところ、知事は利水では形勢悪しと見て治水に話を移して次のように語った。

「埼玉(県知事)の上田(清司)君の話なんか聞いたらいいと思うけれども、堤防が非常に老朽化して、どうどうと浸水してきて、結局、それに対する対策というのは、堤防をつくり直すということで、べらぼうにお金がかかるから、その度に、地元の消防団が出て、ここはまずい、危ないということで土嚢を積んだりなんかしているらしいけれども、堤防の決壊もさることながら、前提となる浸水というのでしょうか、それが堤防の反対側に、わき上がってくるような状況というのはあるみたいだから

これを聞けば治水対策として優先すべきは、老朽化した堤防の強化だと誰でも判断ができる。しかし、知事はそう語ったあと、「これまた八ツ場について考える1つの条件じゃないでしょうか」と続けた。

このような説明でも、前政権下では事業を執行できたのである。だからこそ、前大臣は、特定多目的ダム法に基づき、議会の議決を経た知事意見を聞いた上で、最終的に国土交通大臣として合理的な判断を下して、八ツ場ダムの基本計画を廃止すればよかったのだ。知事が推進意見を出したとしても、事業主体として、それに勝る合理的な決断と説明を行い、その結果責任を政治家がとればいい政治主導には結果責任が伴うものであり、それが国民が望んだ政権交代の姿ではないか。無駄なものを作っても誰も責任を持たない官僚主導のダム政策からの脱却である

法執行を決断できなかったのは致命的
ところが、法の執行をせずに、生活再建事業だけは続けるという。前大臣が現実にとった選択は最悪だ。生活再建事業とはダムを前提とした道路や下水道などの附帯工事であり、それらはダムを止めにくくし、本来の生活再建が後回しにされる

一方で、中止宣言とともに法手続に移っていれば、「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」など開催しなくても、ダム政策は変わり、今頃は河川法の抜本改正に向けた議論が展開していただろう。

何故なら、基本計画を廃止すれば、次なる手続きへ進むことになるからだ。一つはダム事業で翻弄されてきた人々の真の生活再建。一つは水資源開発促進法に基づいて特定の7水系で策定されたうちの、利根川水系の水資源開発基本計画(フルプラン)から八ッ場ダムを削除することだ。

後者は、フルプランを後ろ盾してきた「水需要予測」がいい加減であったことを認めることにつながる。水需要予測が「鉛筆なめ」であることはそれをオーソライズする御用学者でさえ知っており、過去にはそれが審議される審議会で、水資源開発促進法の廃止自体が議論され、その議論が隠ぺいされたこともある。政権交代した今、高度成長が見込まれた7水系でダム建設をするために作られたスキームは役割を終えたと与党政府が認めれば、過去の判断ミスも認めた上で、今後のムダな事業も止められる。

利根川水系では八ッ場ダムをフルプランから外す際、同時に現在進行中の思川開発事業もフルプランから外せない理由を出させ、妥当性がなければ外せばいい。

木曽川水系でも、1滴の工業用水も使われていない長良川河口堰、その後にできた徳山ダムも不要だったことを現政権なら認めることができるだろう。どちらもフルプランに位置づけられた事業だった。そして徳山ダムを通過して流れる揖斐川から、長良川経由で木曽川へ渇水時に導水するというナンセンスな木曽川導水事業も「要らない」と主張している名古屋市長の言う通りに「要らない」事業であることが認識されるだろう。

淀川水系でもしかり。丹生ダムは、北斗の拳のケンシロウがいれば「お前はすでに死んでいる」と2回は言われている事業だ。その利水分はフルプランから外され、河川法に基づく淀川水系河川整備計画からも外された。それでもいまだに独立行政法人水資源機構事業として諸経費を浪費している。

こうしてこの政策の実行部隊である独立行政法人(旧特殊法人)のダム事業がゼロになり、維持管理だけとなれば、水資源開発促進法の廃止および実行部隊である独立行政法人水資源機構の解体にもつながる。

国の直轄事業であっても、八ッ場ダムの中止はドミノ的にそこまでの波及力を持つからこそ、河川官僚は身体を張って過剰防衛するはずなのである。

それだけではない。ひとたび、全7水系における水需要予測が「鉛筆なめ」で、それが既得権益構造を維持するキーストーンだったと明らかになれば、今度は、洪水想定もまた「鉛筆なめ」で、ダム事業の必要性を作り出すものであり、真の治水とは違うことも認めざるを得なくなることへとつながっていく。

そうやって初めて、合理的で確実性の高い治水、すなわち人命や財産を洪水から守るにはどうすべきなのかが出発点でゴールでもある治水のあり方へとつながっていったことだろう。そのチャンスを逃したという意味で、八ツ場ダム中止の手法は最悪の道筋を辿っている。

どこから見ても官僚主導
一方で、昨年11月に前原大臣が設置した「今後の治水対策のあり方に関する有識者会議」は、いまどき審議を公開しない審議会すらない中、ダムを推進してきた人と河川行政を専門としない学者だけを集めて非公開で行うという理解不能な会議となった。「できるだけダムにたよらない治水」へ政策転換するとの開催趣旨は間違っていないが、その方針に河川官僚が従わず、それが実現できない道へと官僚が誘導していることは、この会議が出してきた政策文書から明らかだ。

河川法に基づく法定の審議会がありながら、私的諮問機関として「治水対策のあり方」を議論しても、大臣や政権が変われば、本家本元の河川法も審議会も、それらがオーソライズしたダム事業も無傷で復活できる。有識者会議がまとめたことになっている河川官僚の作文であろう政策文書「中間とりまとめ(案)」では、「治水目標と河川整備の進め方」として、「河川整備の長期的な目標としては、河川整備基本方針において計画高水流量等が設定されているが、その長期的な目標が達成されるまでの具体的な事業に関しては、河川整備基本方針と整合性のとれた中期的な整備目標を持つ河川整備計画が定められ、その目標に対する治水安全度の確保と災害軽減を図るための事業が実施される」と、現状と変わらない考え方が明記されていることがその査証だ。この後に、いかなる「代替案」が示され検証されようとも、彼らのキーストーンはこの数行である。政策を変換する気はないのだ。

従って、ダム政策の転換、第一ラウンド目は、政治側の負けである。

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コメント

よいまとめありがとうございます。
有識者会議では、基本高水を見直さないことを決めたことで、従来の決定を従来の方法で再確認する場になったように思います。
利根川の基本高水の値そのものを学術会議にかけたことは革新的でしたが、結局は、学術会議であっても、科学よりも業界の利益を優先することを示した結果に終わりました。
結局、政治でしか解決できない問題であることが、改めて示されたように思います。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 20時50分

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